ポジティブシンキングなんてくそくらえって言いたい
最近、これはちょっと誰かに共感してほしいなあということがあって
仲間に共感してもらいました。
実際に会って誰かに共感してもらうのがひさしぶりだったのと、
思いのほか深いところへ潜り込んだことで
ああ、やっぱり共感のちからというのはあたたかく、パワフルだなあと改めておもいました。
NVCでいう共感というのは、ただそこにともにある、ということです。
同情や同調(同じ気持ちになったり、感情移入したり)とは別物。
わたしはわたしの世界を体験している。
そして相手はそれを見守ってくれている、という感じ。
でも、遠くから見守るという感じではなくて、
ただそこにいて、同じ波に乗ってサーフィンしているような。
ああ、あなたにはこんなふうにこの波が見えているんだね。
この波にこんなふうに乗っているんだね。
そんなふうに、聞き手はただ寄り添ってくれる。
そのうちに、わたしの中にあるニーズのエネルギーをすくいあげて、
それに言葉をはりつけて、もしかして、これ、そう?
ハンカチ、ふわりとここに落ちているけど、これ、もしかしてあなたの?
そんなかんじで、そのエネルギーをことばにかえて、ぽんっと投げてくれる。
そうすると、そこからじわりと波紋が広がって、体がニーズを感じ始める。
ニーズという、いのちのエネルギーが、じわり、じわりと体にひろがっていく。
そうそう、わたし、これ、大事にしてたの。
でも、なんだかとりこぼしていたみたい。
でも、おもいだした。
とてもとても大切だった。
そして、これがないことがとてもとても残念で悲しかった。
嘆きたかったのだけど、嘆きたい、っていうそのことがわからなくなってた。
みつけてくれて、ありがとう。
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聞き手が、ただともにあり続けてくれる。
そうすると、深い深いところへ降りて行くことができます。
そこは、自分のいのち、エネルギーとつながる場所。
話し手がその深いところへ降りて行ったとき、
聞き手もまた、そのエネルギーを体験します。
聞き手としてそこに行くと、相手とのつながりを思い出す感覚が、わたしにはあります。
我汝、の感覚。
さて。いのちのエネルギーにつながるのを妨げるとわたしが考えるもののひとつに、
「ポジティブシンキング」があります。
たとえばなにか、悲しく感じるような出来事がおきたとき。
「これは何か意味があるに違いない」「成長するチャンスだ」
そんなふうに、心が悲しみを感じていることを無視して
頭で、感情を押し込めてしまう。
感情は、いのちのエネルギーにたどりつくための足がかり。
でも、それを無視したら、なかなかそこには行けません。
それなのに、その感情を押し込めたり、あるいはなかったことにするツールを
私たちはたくさん持っています。
今、心がどんなふうなのか。
それをただ見守る。
心に寄り添って、そうしていのちにつながっていく。
ありのままに見る
って、つまりこういうことだなとおもいます。