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インドでわ(た)しも考えた


先日幸運にもインドにてアーユルヴェーダ医師にお会いする機会がありました。

大きな病院の会議室に、ずらりと8名の医師。

さあなんでも質問をしていいですよ、と言われたものの、急な会合。

当たり障りのないことは聞けるけれど、会話が続かない…。

そこでつい出た質問がこれ。

「HIVについてどう思いますか?」。

HIVに感染して10年以上西洋医学での治療を続けてきたものの、

それに疑問を感じアーユルヴェーダでの治療に切り替えて1年。

日本に主治医もいるけれど、セカンドオピニオンも欲しいと思っていたところ。

まさかセカンドどころか、8名の医師からの意見を聞く機会があるとは思わなかったけど…。

この質問に対する医師たちの答えはこう。

「免疫力をあげておけば大丈夫」。

8名、皆が異口同音に。

インドでHIVがとう捉えられているかもわからず、

もしかしたら偏見があるかもしれない、なんて考えもよぎったけれど、

それは完璧に裏切られたというわけです。

さらに「ウイルスを体内からなくすことはできない、でも免疫力があれば問題ない」と続ける医師たち。

日本では、医療関係者であってもHIVに感染していることを告げるとひるむ。

診察を断られることも少なくないというのが現状。

現在のアーユルヴェーダの主治医も最初は

「自分の手に負えないかもしれない」と言ったくらい。

それなのに、インドの医師たちにかかると、HIVがたいしたことのないよう。

8人が口々に問題ない、と。

「問題ない」はインド人の口癖ではあるけれど、そこに深刻さはなし。

私は、感染以来、あえて隠さず、あえてカミングアウトをせず、

という態度を通して、「HIVはたいしたことない」

ということを伝えようとしてきた、はずでした。

でも。

私自身「たいしたことである」と思い込んでいたことに、

このとき、はっと気づいたわけです。

同時に、アーユルヴェーダのみの治療に

切り替えたことに対しての不安があったことにも。

そして、HIVを受け入れたふりをしていて、

本当には受け入れていないことにも。

PWHIV(Person with HIV)、HIVとともに生きていく、と思っているふりをして、

その実、体からウイルスがなくなればいいと思っていたことにも。

アーユルヴェーダの考え方は、そもそも西洋医学とはちがいます。

そのことを思い知らされた気がしました。

HIVウイルスが体内にいたところで、

免疫力があればAIDSの発症にはいたらない。

もちろん、西洋医学でもそう考えます。

でも、西洋医学では、このウイルスをなるべく減らそうとする治療をします。

対して、アーユルヴェーダでは、体内にいるものはいる。

だから、免疫力をあげる。

なんとも、シンプルでわかりやすい理論。

そして、同時に、これは感染者にとって救いにもなる考え方。

HIVウイルスを排除すべき、という考え方は、

それとともに一生生きていく者にとって、体内に排除すべきもの、

つまりあってはならないものがあり続けていることを意味します。

ただでさえ、まだ偏見や差別がある中で、

このことは表層の意識に表れないにしても、

知らず知らずのうちに重荷になっているような気がします。

でも、アーユルヴェーダの考え方では、

それらがあろうなかろうが関係ない。ただ免疫力さえあればいい。

感染から14年目にして、ようやく本当の意味で

HIVを受け入れることができたような気がします。

そして、受け入れてみたら、自分がHIVに固執し、

自分自身を肉体と同一視していたことがよーく分かりました。

すると、HIVに対して、これまでになくより深い感謝の気持ちが。

私は、これがなければ、自分が肉体であると

錯覚したまま生きていくところだったというわけです。

もちろん、頭では自分が肉体ではないということは知っていました。

でも、それを実感してはいなかったんですね。

何事も、受け入れるところから始まります。

受け入れなければ何も始まりません。

体に起こることにはすべて意味があります。

私はようやくスタート地点に立ったんだなあという気がします。

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